ネタバレ含みます。
一言あらすじ
全体のあらすじだけ言えば、若者が婚約者のいる女性に恋をしてしまい、自殺にいたるという物語。豊かな感性が祝福にもなり、呪いにもなるということがまざまざと描かれています。
感想 ~ウェルテルの豊かな感性が、熱病のごとき呪いに変わるまで
タイトルに「若き」とついているばっかりに、若さゆえの感情暴走の話だとされることも多いけれど、これはウェルテル自身の気質によるものが大きいのではないかと思いました。
感情も思考も強くって、物事の美しさに大きく感動できるぶんだけ、悲壮も大きいような。
ウェルテルは感性が繊細なのですよね。
美しいものを前にして言葉を尽くさずにいられなかったり、それでもあまりに感動してしまえばとても絵筆が動かないと言ったり、そういう気質を持つ人間は年齢にかかわらずいるでしょう。逆に、そういうことを一生感じずに終わる人もいるでしょう。
ウェルテルにそういう気質があることは、事が起きる前の冒頭の、彼の生活の描写だけでもとてもよくわかります。
(p7)不思議な朗らかさがぼくの心をすっかりとりこにしてしまった。ぼくが心底から味わいたのしんでいる甘美な春の朝な朝なのような。ぼくはひとりだ、そうしてぼくみたいな人間のために作られたこの土地での生活をたのしんでいるんだ。幸福この上もない。やすらかに生きているという感情の中におぼれきっている。だから絵筆のほうはそっちのけになってしまった。一本の線も今は描けそうにないんだが、しかしぼくが今ほどえらい絵描きだったことはない。
そういえば、日本の文豪・夏目漱石も「草枕」の中で似たようなことを言っていましたね。
実際に絵の形にしていなくとも、感性のなかに、美しさの中に溶け込んで、心象に起こしているとき、人は絵描きになれるのでしょう。
(つづき)まわりの美しい谷間から霧が立ちのぼり、昼間も暗いぼくの森の上に高々と太陽がかかって、ただ幾筋かの光線が神聖な森の暗がりにそっと差しこむ。そんなとき、ぼくは流れ下る小川のほとりの深い草の中にからだを横たえ、大地に身をすり寄せて数限りないいろいろの草に目をとめる。草の茎の間の小世界のうごめき、小虫、羽虫のきわめがたい無数の姿を自分の胸近く感ずる。自分の姿に似せてぼくらをつくった全能者の現存、ぼくらを永遠の歓喜のうちにやさしくささえ保っていてくれる万物の父のいぶきを感ずる。そのうち両の眼がかすんできて、身のまわりのいっさいや青空がまったくぼくの魂の中に、まるで恋人の面影のようにやすらう。――そんなときにぼくは万感胸に満ちて、こう考えるのだ。ああ、こんなにもゆたかに、こんなにもあたたかく己の中に生きているものを表現することができたらなあ。それを画紙にとらえることができたらなあ。そうして、ちょうど己の魂が無限なる神の鏡であるように、それが己の鏡になってくれたなら。わかってくれるかい。――けれど、だめなんだ、ぼくは。そういうものがあんまり素晴らしいので、手も足も出なくなってしまうんだ。
豊かな感性は呪いになってしまうこともありますが、世界の多くを感じ取れるということは、一方でとても素晴らしいことです。
その感性がなければ、ウェルテルだって(作者のゲーテだって)こういう言葉を生み出すことはできなかったはずです。
世界の美しいところを拾い上げて味わえることの、なんと幸福なことか。この描写は、その感性を見事に表していて、とても上手だと思いました。
私も、美しい景色の中で横になっていて、似たような感情になったことがあります。
あまりに世界が完璧で、言葉でも絵でも形にしたとたんに一部が切り取られてしまうと悟ってしまう。
自然の愛を感じ、あの瞬間はすべてに感謝して、すべてと一体になっていました。
孤独が好きだけれども、一方で宇宙そのものと一体になることに恋焦がれている。
でも、だからこそ、目の前に人の形をとって恋焦がれるものが現れてしまったとき、ウェルテルは狂っていってしまったのでしょう。
自然は多くのものを受け入れてくれますが、人は個人である以上溶けあって一体になることはできません。
個人は個人でしかなく、ほかの誰かのものではないし、ましてや神ではありえません。
でも、ウェルテルはロッテを神聖化してしまった。一人の人間でしかないロッテを天使と呼んで、対等によく知ろうとはせず偉大なものと扱って、それで、その引力に吞まれてしまった。
感性は、自分で御することができれば祝福ですが、できなければ簡単に呪いになります。
外の世界のものを、感性でコントロールしてはならない。
美しさを感じ取るのは自由だし素晴らしいことですが、そこで生まれた感情は自分のものでしかありません。それが世界に必ず投影されると思うから、おかしなことになる。
感じ取る力があるということは、他者との境界が溶けやすいということでもあるので、感性が豊かな人間ほど他者を他者として尊重していかないと、すぐ呑み込まれます。
もっとも、本人にとってはそれを分かっていてもどうしようもなかったのでしょう。いや、深層では分かっていても、表層にはのぼってきていなかったのかもしれません。
それが「若さ」ということなのでしょうか。
自分があくまでも世界の一個人でしかなく、他の誰かにはその人自身の理屈があって感性があると、もう少し早く諦められていたならば。
人を愛し、自然を愛し、世界を愛しても、こうなってしまう。冒頭の描写できらめく感性を表していた人間が、扱いきれずに呑まれて狂っていく様を見ると、切なくなります。
生きていれば、いつかどこかでそういう自分の丸ごとすべてを受け入れて、また彼の好きな美しい泉に憩うこともあったかもしれないのに。でも、それは読者だからこそ言えることですね。
タイトルの「悩み」の意味を、原題ドイツ語「die Leiden」の語源から考える
ちなみに、タイトルの「悩み」は原題ドイツ語では「die Leiden」です。これは、苦しみとか痛みとか、何かにさいなまれている様子を表すもので、結構な熱量をもった単語だと思います。(しかもここでは複数形)
その動詞形のleidenというのも、病気やトラブルにさいなまれているという意味で、単なる悩みというより、苦しみを抱えてどうしようもない様子を表しています。
面白いのは、これにschaftがついてdie Leidenschaftになると、「情熱」の意味になることです。
情熱というのは時にその人の正気を失わせ、苦しみのもとにもなってしまうという点が、単語の成り立ちからもわかるような気がします。
das Leidenもdie Leidenschaftも同じ語源をもち、「耐える」という意味が根底にあります。
人間の力ではどうしようもないもの、耐えなければならないもの、振り回され情熱にも苦しみにもなってしまうもの、タイトル自体もそれを示していると思えば、ウェルテルの「悩み」がどういうものだったかより分かるのではないでしょうか。
単語の語源についての参考:
