お昼に、ふと思い立ってごはんをつくりました。
お湯を沸かして、大根のはしっこでお味噌汁を作ります。余っていた小松菜もちぎって入れましょう。出し巻き卵を少しだけ味濃いめに作って、おかずはそれだけ。ごはんは冷蔵庫のひえたのを、電子レンジでチンします。
しあわせすぎて、びっくりしてしまいました。もちろん、食べたいと思って作っているのだから、しあわせなのはそうなのですが。予想を超えているというか。木漏れ日の入る部屋で一汁三菜。これが自分のふるさとの味だったわ、たしかに、と、染み渡るような。
どうしてこうも美味しいのか。考えてみれば、それは自分で手をかけたという満足感にある気がします。例えば旅館に行って出てくる朝ごはんも出し巻き卵や味噌汁があって、なんならのりや納豆やサケなんかもついているけれど、その感じとはまた違います。
ひとりで、空っぽの部屋で、青空の日差しとカーテンだけがゆらいで、そこで自分で自分のためだけに作ったものを食べるのが、いいんです。それも、計画して作ったものじゃなくて、ただなんとなく、思い付きで、あった材料を継ぎ合わせて、簡単に作るのが、いいんです。
最近は昔に比べて、ひとりで楽しむことが市民権を得はじめました。孤独は悪ではない、孤独は生産性を高める、とか、色々な本や記事が出ています。一人で焼肉屋に行けるか、一人で遊園地に行けるか、一人で旅行に行けるか。そんな話題が上がることもあります。でも、ひとりで楽しむって、そんなに気負ってやるものでもない気もするのです。
ひとりで楽しむことのいいところはいっぱいあると思いますが、中でも一番は、「行き当たりばったりでも許されること」だと思います。
人と何かをすると、いくら気心の知れた中でもある程度は協調性が必要になりますが、ひとりだと、一から十まで自由です。思い立ってあまりものでご飯を作ってもいいし、旅に行くのでも切符を当日まで取らなくていいし、観光地でもないたまたま見つけた本屋に長いこといたっていい。
「行き当たりばったり」は、「なににも縛られず好き勝手出来る」というだけではありません。「行き当たりばったり」には「未知」がたくさん含まれています。
予定しないから未知のことが起きる。事前の期待がないから未知のすばらしさを知れる。一人だと会話もないから、自分や周囲に全力で向かい合えて、見知ったところにさえ未知をみつけられる。予定調和な日常にも、一人で楽しむことは時に新鮮さを生みます。
特別なことをしようと気負わなくても、思い立ったことを、ぽろっと実行に移してみる。もしくは、いつもよりほんの少しだけ丁寧にやってみる。ひとりの時間には無限大の、まだ知らない幸福が隠れていますね。